2.審議
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○ |
中川委員長 |
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おはようございます。早朝から遠くの方々、お集まりいただきましてありがとございます。
それでは、早速ですが第2回の流域委員会、お手元にお配りしました議事次第に従いまして進行させていただきたいと思います。
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2-1.運営細則第6条の訂正
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○ |
中川委員長 |
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第1は、審議の2-1.運営細則第6条の訂正でございます。これにつきましては、庶務の方からご説明をお願いします。
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○ |
庶務 |
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「運営細則第6条の訂正」ということで審議していただきたいのですが、第1回の流域委員会で審議していただいた運営細則の件でございますが、一部1回目の審議内容のとおりに変わっていない箇所がございましたので、訂正して報告させていただきます。
資料-1の2ページ目で説明させていただきます。対比表で、第1回紀の川流域委員会の内容の運営細則を左側に書いています。今回の訂正は右側に書いているところでございます。赤い部分が訂正させていただく部分でございます。読み上げて訂正とさせていただきます。
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<<「資料-1」の説明>>
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○ |
中川委員長 |
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この第6条の訂正、よろしいですか。
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[[ 全委員同意 ]]
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○ |
中川委員長 |
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それでは、これをご承認願いたいと思います。
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2-2.各委員から「紀の川とのかかわり等」について報告
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○ |
中川委員長 |
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それでは次、審議の2-2.でございますが、実は前回、各委員の方々からそれぞれ紀の川に寄せる思いといいますか、どういったかかわり方をしておられるかということを非常に短い時間でもお話し願おうと予定してたのですが、その時間がなく本日参考資料の2として各委員からの紀の川の思い入れ集といったものを書いていただきまして配付しております。余り時間もございませんが、各委員からこのことについてできれば二、三分程度、この内容あるいは追加するような内容についてお話を願えればありがたいと思い時間をとっていますので、今からできましたら安藤委員の方から順番に言っていただきたい。
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○ |
安藤委員 |
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安藤精一と申します。どうぞよろしくお願いします。
私、50年間紀の川流域を勉強させていただいておりますが、主として近世の社会経済史という分野でございますので、わからないことがまだ増えつつあるところでございますので、皆様方に教えていただきたいと思います。
一番興味を持っているのは、この紀の川流域というのは古代から大陸文化が入ってきて、非常に進んでいる。そして、大谷古墳とか岩橋千塚古墳のような古墳から見てもわかりますように、また荘園時代に入りますと荘園が非常に広い意味での紀の川流域でございますけれども、非常にたくさんの荘園ができておると言われておりますし、近世になりますと非常に技術水準が高い。
配布された解説にもございますが紀州流の土木工法と言われるようになりましたのは吉宗が出てからでございまして、その前は関東地方の自然開発を行っている、解説にも、新田開発は近世初期から江戸のころまでだと書いてありますけれども、これは当然甲州流とか関東流で行っていて紀州流ではないのです。解説は、少し表現が十分でないところもあるように感じましたけれども。吉宗が将軍になってから井沢弥惣兵衛を連れていって、パナマ運河よりも
183年前に閘門式、低いところから高いところへ上げていくあの運河をつくった高い技術水準というのがあります。それは医学にも出てくる華岡青洲のような科学的なものが高い水準にあって、これはやはり紀の川が生み出したものであると思います。
そのほかは、周辺の文化財関係のものです。そういうものに注目していくと、勉強をさらに深めていきたいと、こういうふうに思っています。すばらしい歴史と風土を守って行きたいものです。
どうぞよろしくお願いいたします。
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○ |
中川委員長 |
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どうもありがとうございました。
それでは、池淵委員お願いします。
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○ |
池淵委員 |
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私の専門は水文ということで水循環、それからそれをベースにした水資源工学、そういったとこを専門としているのですが、紀の川につきましては先ほどお話ございましたように紀州流とか、水田開発とか、いろいろなこと見せていただいた感じでは堰、どちらかと申しますと農業の川かなという思いを少ししたわけでございます。大台ヶ原の非常に大きな雨とか、それから上流にあります丹生川上神社の黒馬とか白馬、治水とか利水に対するいろいろな人間の思い入れという形のものが、この地にあってもいわゆる洪水や渇水に対する精神的な取り組みもなされている、そういった思いを深くしたわけでございます。
森林から農地、それから都市ということで、土地利用の歴史的な変遷を特に近年においては下流都市の非常な人口の増大という形の中で、この上下流あるいは自然が使う水と人間が使う水、それから上水、工水、農水そういったものが入る。こういったものにおいて、いろいろな意味でのコンフリクトといいますか、そういったものが生じてきている。これは歴史的な経緯もそうでしょうけれども、そこにいろいろな調整といいますか、折り合いのつけ方、そういったものがなされてきて、また今日そういったものへの折り合いをどう進めるか、そういった形のものが安全、安心、安定供給という水準の目安と合わせて、この地においてもなされる。そういったものが整備計画の中でされるということで興味を持って参加させていただいております。
以上でございます。
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○ |
中川委員長 |
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どうもありがとうございました。
それでは、今中委員お願いします。
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○ |
今中委員 |
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今中です。どうぞよろしくお願いいたします。
紀の川の思い入れということですが、私は紀の川の上流に当たります吉野川の辺で生まれ育った者です。周辺には津風呂ダムとか、大迫ダム、あるいは現在建設中の大滝ダムがあります。
私の子供の頃は川も水量が多くて、川上より木材を運ぶ筏流しや、川遊びの屋形舟が行き来したこともあります。また、屋形舟の後ろについて泳いだ思い出などがあります。しかし、台風の時には、洪水の恐ろしさ、怖さについては、川に大きな橋や家が流されているのを幼いながらに見たことが今も脳裏に強く焼きついています。
このような川でも、水辺に関わる者にとっては生活の一部となっています。これからの河川の役割は、治水・利水にとどまらず、人にやさしい、潤いのある水辺の空間や、生物の多様な環境保全、あるいは地域の特性を活かした個性ある川づくりが、非常に大切なことだと思います。
人は自然の中に生かされているわけですから、そういうこともいろいろ考えながら、特に洪水対策、渇水対策ということにおいても、これからの時代20年、30年を見越していく中で、川づくりについては河川の自然の地形を利用することも大事ですが、何か近代的な方法を応用し、手段としては電子的に素早く対応する体制を各地域に多くつくる。そういう方策がこれからは大切だと思います。
これからは人と自然の調和や共生ができるよう、よりよい川づくりを基本に置いて、皆様とともに考えていきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
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○ |
中川委員長 |
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どうもありがとうございました。
それでは、岩橋委員お願いします。
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○ |
岩橋委員 |
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岩橋ですが、今日、配っていただいた中にありますが、私の母親は93歳ですが、子供のころはよく紀の川に水泳の練習に行ったという話をよく聞かされました。これは今、プールで水泳教室やっていますけれども、それと同じようなものだと思います。
それから、私の母の父が、私の祖父に当たるわけですけれども、和歌山市の市会議員をしていたことがあるようで、その母からは祖父が市会議員の仕事として、紀の川が氾濫したのでそれをくい止めるのに力を尽くしたという話をよく聞かされました。
それから3番目に、私は仕事の面では紀の川左岸にいろいろ家を建てる場合にお金をこっちへ出すと、そういうようなところとも仕事の上では接触したりしています。
そういうことが、紀の川と私のかかわりです。以上です。
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○ |
中川委員長 |
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どうもありがとうございました。
それでは、岩畑委員お願いします。
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○ |
岩畑委員 |
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岩畑です。よろしくお願いします。
私は、半生期通じてほとんど和歌山市内で生活したわけなのですけれども、この紀の川もしくはこの支流の紀伊丹生川とは非常に縁がありまして、当初はやはり私ども和歌山市内で小学生、中学生のときは、古い話なのですけれども、キャンプに行くというと玉川峡に必ず行ったと。これは毎年の恒例でありまして、子供心ながらに今でも覚えております。
そして、時たって30歳過ぎから、私実は和歌山県の郷土の風景写真のカレンダーづくりに参加させていただきまして、和歌山県における風景の撮影を約8年間にわたりさせていただきました。紀南の方から高野山の方へ上がっていく道すべてです。それで、必ず和歌山市内からは紀の川のそばを走り、高野山へ上がっていくと。どこから上がっても、必ず帰りはその玉川峡を下って市内国道へ抜けて帰ってくる。
それで私感じたことは、やはり紀の川というのは非常に優美な、和歌山の一つのシンボリックな風景であると。これを常々感じながら見て、接したというのでしょうか、通ったわけです。
その後98年、玉川峡にダムができるということで、「えっ」ということで。幼少のころ、また、10何年前通ったところのどこが水没するのだということで非常に興味を持ちまして、これが3度目の紀伊丹川ないし紀の川へのかかわりというところであります。
また足を運びまして、いろいろお話を聞いたりと、そういうことのかかわりを通じまして、私にとってはその人生、半生期の間で3度紀伊丹生川の方へ足を踏み入れる、これ何か縁があるのではないかと。そういう形での紀の川ということで、こういう機会で紀の川をどうしていくかという流域委員会に参加できたことに、非常に光栄に思っております。この委員会を通じまして、私もより勉強して、どういう方向性がいいのかということを、皆様とともに考えていきたいと思いますので、よろしくひとつお願いしたいと思います。
以上です。
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○ |
中川委員長 |
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どうもありがとうございました。
それでは、上本委員お願いします。
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○ |
上本委員 |
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上本でございます。よろしくお願いします。
私は、今現在和歌山市の水道局の水質試験室に勤めております。紀の川の思い入れということで、ここにも書かせていただいてますように小さいころ橋本市の方に住んでいました。その時の紀の川祭を非常に楽しみにしていた記憶がございます。その後小学校1年生のころまでは橋本市の方にいました。後、父親の仕事の関係で橋本市を離れ紀の川祭とは縁が切れたわけです。
その後昭和45年、市役所に勤めるようになり下水関係、公害関係等の仕事につき、このたび1年ほど前から水道の方にお世話になっています。それで、私が想像していた紀の川の水と、現在1年余りですけれども水道の方で水質試験を行っていますが、その中で私が思っていた紀の川の水と若干違い、少し驚きを持っております。しかし、当然紀の川の水を浄化して市民に供給しております。
このたびこの委員会に参加できたことを名誉に思っております。よろしくお願いします。
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○ |
中川委員長 |
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どうもありがとうございました。
それでは、梅田委員お願いします。
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○ |
梅田委員 |
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梅田恵以子でございます。
私は、紀の川という川にかかわり始めてから70年近くなります。紀の川だけではなく、和歌山県全域の川について興味を持っております。だから、本川だけではなく支川の様子、人の暮らし、食文化、風景、民俗、その他いろいろなことをできるだけ現在の様子と過去のいろいろな話を書き残しておきたいと思っております。有吉佐和子が小説「紀ノ川」を書いて、紀の川が全国的に有名になりました。だから、紀の川をよりよくしたい。川はその町、県の文化を見るということですからできるだけいい方向に向くように、書きたいと思っております。
1つは主婦の目ということで、小さなところから考えていくことで、やはり家庭の台所を持っている者の台所の排水から考えていくという視点を川への思いにつなげております。
以上です。
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○ |
中川委員長 |
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どうもありがとうございました。
それでは、江頭委員お願いします。
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○ |
江頭委員 |
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江頭です。私の専門は河川工学であります。特に雨が降り、それが山の土砂を浸食し、それが川に入って河口に出ていく過程において、川がどういうふうに変わっていくかということを専門に勉強しています。そういう目で紀の川を見ますと、紀の川は古い時代に形成された中央構造線に沿って真っすぐ流れています。上流域には地すべり地等たくさんあります。現在は比較的おとなしい川のように見えますが、これは、土砂移動がそうたびたび起こるようなものではないからです。ここでは、例えば何年に1回かの豪雨のときに山が動き、水が川に入ったときに川がどういうインパクトを受けるかという目で川の安全性を考えていきたいと思っています。
さらに、安全性だけでなく、先ほど来話が出ていますように環境および川を利用するという3つの条件を満たすような川づくりはどのようななものか、そういうことに対して少しでも貢献できればと考えております。以上です。
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○ |
中川委員長 |
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どうもありがとうございました。
それでは、江種委員お願いします。
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○ |
江種委員 |
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和歌山大学の江種と申します。よろしくお願いします。
私自身は紀の川とのかかわりと言いましても、まだこちらの方に来て5年程度ですので余り経験はないのですが、現在は特に流域の人間活動が河川環境、主に水質に与える影響について研究を行っております。これまでには大体源流の大台ヶ原あたりから河口あたりまで、四、五回程度しか一斉調査を行ってないのですが、そういうことを通して、紀の川が流れていく間にどういうふうに水質が変化していくか。特に私がやっているのはイオン類、無機イオンみたいなものがどの程度変化するか。それによって河川環境を評価する。そういったことを行っています。
最近ですが、紀の川の支流の貴志川の支流の柘榴川を定期的に調査を始めておりまして、貴志川特に柘榴川周辺なのですが、あの地域は非常に果樹園が多い地域ですので果樹園が河川水質に与える影響を調査しています。今あの地域は、桃がおいしい時期で、調査に行くときには道端で売っている桃を楽しみに買っています。
以上のようなことです。よろしくお願いします。
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○ |
中川委員長 |
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どうもありがとうございました。
それでは、大谷委員お願いします。
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○ |
大谷委員 |
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大谷と申します。私、生まれも育ちも奈良県五條市というところで、紀の川というより吉野川という名の方で親しんでまいりました。それで、今まで35年間ずっと吉野川の水、川のあるところから3分のところに住んでおりますので、川のいろいろな怖い面、それからやさしい面というのを見てまいりました。
小さいころ、よく泳いだり、魚をとったりだとかしておりましたが、今私たちの子供たちの世代にはそういうのがほとんどないといいますか、吉野川は汚い川というイメージがかなりうまってきていると思います。それで、やはり僕らがいくら子供たちに吉野川をきれいにしようよと言ってもだめだと思いますので、私達の団体の方では住民の方にもっとモラルを呼びかけようという運動を現在行ってきています。余りそう川について難しい知識はほとんどないのですけれども、こちらで学ばせていただいたことを私たちの町の方に持って帰らせていただいて、少しでも住民の方に紀の川、吉野川に興味を持っていただければと思い、出席させていただいております。よろしくお願いします。
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○ |
中川委員長 |
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どうもありがとうございました。
それでは、小川委員お願いします。
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○ |
小川委員 |
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小川です。子供のころから玉川峡を自分のプールのように使って遊んでましたもので、余りにも身近にあり過ぎて紀の川や玉川に対する危機感とかというのは全然持っていなかったのですけれど、「紀伊丹生ダムを考える会」に入って川の大切さとか、自然の大切さとかいうのを逆に教えられたという感じです。できればこの委員会においても、私が感じたような玉川峡のこの自然を皆様に知ってもらいたいなと思っております。よろしくお願いします。
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○ |
中川委員長 |
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どうもありがとうございました。
それでは、小田委員お願いします。
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○ |
小田委員 |
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和歌山大学の小田でございます。
私は、和歌山大学に赴任いたしまして30年ほどなります。堺に住んでいまして、通勤の途中、必ず紀の川を渡らないと大学へ来れないということで、毎日ではありませんけれども1年の3分の2ぐらいは電車の中、あるいは車の中から紀の川を見させていただいて通勤しております。
日本全国たくさんの川がありますけれども、私は和歌山へ来るまで、幼いころ和歌山と言えば紀の川をすぐに思い浮かべました。それほど紀の川というのは和歌山にとって非常に重要な位置づけのある川だろうと思います。昨今、川が非常に汚れている。これは紀の川だけではなくて淀川、大和川もそうなのですが非常に汚れている。
これは、戦後の経済成長の中で生活の利便性が高まったかわりに川を汚していった。もう一つ言えば人間のおごりとかエゴが、川を汚染してしまっているのではないかと。つまり、川からたくさんの恩恵を受けているにもかかわらず、人間がそれに対してその恩恵にこたえるようなことをしてこなかったのではないかなというような気持ちを持っております。
といいますのは、私の専門が経営学で、経営学の対象は企業でございまして、戦後経済成長の中で企業活動が非常に活発になってきた。それが川に非常によくない影響を及ぼしてきたのではないかなと思っています。その結果として、人間の利便性が出てきたのですが、人間のエゴとかおごりがまた出てきている。この際自然と人間が川を通じて共生できるようなことをもう一度原点に返って見直していく必要があるのではなかろうか。
人間の生活には水が不可欠でありますので、その意味では紀の川というのは和歌山にとって恵みの源ではないかという発想を持つ必要があるのではないか。もう一度その辺のところから改めて紀の川というものを、私自身も一緒に考えさせていただければと思っております。
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○ |
中川委員長 |
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どうもありがとうございました。
それでは、神吉委員お願いします。
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○ |
神吉委員 |
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神吉と申します。よろしくお願いします。
配布冊子の後ろから2ページ目、17ページ以降のところに載せていただいております。
私もまだ和歌山大学に来て4年ほどで、現実に紀の川流域でフィールドを持っているかと言われるときっちりと研究しているフィールドを持ってませんので、余りいいかげんなことは言えないなと思って、逆に一般論として2点をここに挙げさせていただきました。
私は都市計画、農村計画が専門なのですが、全国的、一般的な話として、ここ100年で都市というのは非常に変わりましたけれども、恐らくは河川に対してどういうように市街地があるべきかというようなことを、多少は考えているにしてもはっきりとそれを取り上げている都市計画とか土地利用計画とか、場合によっては建物の建て方ですとか、ライフスタイルとかいうことを真正面から行っていることは、ほとんど無いわけです。今後そういうことではだめだと思っております。 河川の環境の場合も河川の堤防内というのでしょうか、管理範囲内だけで決めてしまいそれで責任をかぶるということではなくて、流域全体で下流域の市町村の市街地をどう計画するのかとか、土地利用をこういうふうに変化させていいのかどうかとかいうことに影響を与えていかないといけないと思っております。まだまだ事例としてはこういう取り組みは少ないですけれども、それは本格的に必要な話だと。
それからもう一つなのですが、まちづくりのいつも重要な次元にあります古い町並みとか文化財なのですけれども、海とか川とか湖その他、すべてですが、水辺の文化財というのはここ100年非常に減ってしまった代表例だと思います。海が一番はっきりしているとは思いますが。
紀の川については、私の友人が橋本の古い町なんかフィールドにしてましたので、ついていって見たことがある程度なのですが、実はやはり往事に栄えた非常に立派な民家がありまして、中へ入ってみるとわかるのですけれど、いかにも川に対して思想を持って設計されているのです。そういうのも地元で別に文化財指定されているわけでないものもありますし、個人で大変な負担をしながら保存されてきたものがほとんどです。文化財等についてもそういう隠れたものがたくさんあったり、苦労されて個人に帰着してしまっているものが多数ありますので、すでに文化財指定されているもの等だけで考えるのではなくて、むしろ堀おこす、もしくは今後この際ですから一斉に調査をするということが本当は必要なのです。その辺がいつも気になっておりますし、私の方でも何かをお手伝いできればいいなと思います。
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○ |
中川委員長 |
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どうもありがとうございました。
それでは、玉井委員お願いします。
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○ |
玉井委員 |
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失礼します。環境ということで委員をさせていただいております、玉井と申します。
名簿では哺乳類ほかとなっているのですけれども、余り哺乳類の方は私はよくわかりません。もともと学校の理科、生物の教師をずっと続けていたものですけれども。両生類とか爬虫類とかを専ら今自分のテーマとしてやっておりますので、そういうふうにご理解いただきたいと思います。
それともう一つ、河川の生物の調査をして特に水生昆虫的な生物相でありますが、それらの調査をして河川の水質を知るということにも長くかかわってきました。その水生生物による河川の水質については、これは現在、環境省を初め全国の学校、地域でも行っているわけですが、そのことの発端は吉野川流域にある。その調査方法の発端ですね。津田松苗先生、もう亡くなられましたが今でも奈良に研究所があって続けられております。前々からそういった津田先生のことを学びながら、河川の水生生物を調べて、子供たちとともに調査をしていました。
私は紀南田辺に住んでおりますけれども、大体和歌山では南に行くほど川がきれいなわけです。これは皆様ご承知のとおりでありますけれども、水生生物から調べてもそのとおりであります。奈良で発祥したと言ってもいいほどのそういう生物による水質の調査、これが現在先ほど申しましたように全国でも使われていると。なお、大きな指標になっている、そういうことが言えると思います。
現在、私自身は、ある仕事の関係があって支流の1つである貴志川のそういった調査をしているところであります。
それから、川への思いといえば、両生類を通じていえば、やはりカジカガエルの住んでいる川、これが本当の川だろうと考えています。現在、これも紀南においてもそうでありますが、ウシガエルが川の特に汚れたところの河川に入ってきまして、いわばウシガエルというのは外来の生物ですが、汚れたところが好きなカエルでありまして、これが繁殖していって大変困るなと。本当の川の姿ではないなと、そういったことを案じ、また紀の川、吉野川含めて源流域で産卵しているサンショウウオについても関心を持ちながら行ってます。爬虫類については、淡水のカメ類が川のいろいろなところ、流れの緩やかなところ等で生息していることだろうと思います。 そういったことを考えながら、今後この委員会に取り組んでいきたいと思います。よろしくお願いします。
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○ |
中川委員長 |
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どうもありがとうございました。
それでは、土岐委員お願いします。
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○ |
土岐委員 |
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野鳥の会の土岐です。思い入れには、野鳥のことに書いておりましたので、ほかのことをちょっとお話したいと思います。私の生まれたところが、和歌山市の匠町なんです。というのは、丸正百貨店のもう一つ東側の筋で生まれました。それでずっと昭和20年来おりましたもので、紀の川にも大変近くて、それで先ほど委員さんの言われましたおばあさんが紀の川で泳いだということ、私も紀の川の水練場、そこで泳ぐ練習をしたことを覚えております。
それから、一銭橋という橋がありました。これは木造の江戸時代の風景を思い出すような橋だったのですが、これは洪水ごとに流れて、大変不便な思いをしました。対岸へ渡るのに、ずっと北島橋を通って渡るので、2倍も3倍もかかったということを覚えております。今は随分たくさんいろいろな橋、立派な橋ができまして便利になったと思っています。
それから、私は貝類学会の方がずっと古く海の貝に興味を持って、和歌山県の海岸線をずっと調べてきたのですが、最近になって環境庁からの依頼で淡水や汽水の貝を調べろということで、紀の川の汽水域を少し調べたこともございました。そうしますと、今まで海でしかとれないと思っていた貝が、紀の川の北島橋の下流あたりでとれだしまして、大変驚いているところです。まだ十分調査できていませんが、何しろ小さい貝が多いものですから、これからも少し調査していきたいと思っています。それから、淡水の方は全然やっておりませんので、機会があったらまた六十谷から上流の淡水の貝も調べてみたいと思っています。以上です。
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○ |
中川委員長 |
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どうもありがとうございました。
それでは、濱中委員お願いします。
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○ |
濱中委員 |
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濱中でございます。私は平成11年まで海と川の漁業関係の仕事をしてまいりまして、最近特にアユ関係の仕事をさせていただきました。
本県の主要河川は昭和60年ごろから天然のアユが遡上しなくなりまして、紀の川も同様でございます。原因はいろいろございまして、はっきりしたことはわかりませんが、毎年1月になりますと海で育った小さなアユを特別採捕でとりまして、それを陸上の池で大きくして、それで少ない川へ放流する。そういう仕事を最近まで行ってきたわけでございます。
その種苗を放流した後でいつも思うことは、アユの解禁、和歌山の早いところが5月26日なのですが、それまでに河川の水量が少なくなったり多くなったりいろいろしましてアユに影響する。放流した後でいつも思うのが、河川に安定した水量が流れるような方法、措置はとれないものか。そういうことをいつも考えながら、現在までアユの仕事をさせていただきました。これは紀の川だけではございませんが、何とか安定した水量、きれいな水が河川に流れることを希望いたしたく思います。以上です。
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○ |
中川委員長 |
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どうもありがとうございました。
それでは、古田委員お願いします。
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○ |
古田委員 |
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テレビ和歌山の古田でございます。テレビ和歌山という報道機関に勤めていながら、私的なことをお話しして申しわけないのですけれども、私、紀の川のかかわりということで言えば、中学2年生のときに和歌山に父親の仕事の関係で北海道から引っ越してまいりました。和歌山の台風とそれから大雨の強さというのはけた外れにすごいという認識は持っておりましたし、それから先ほどの方おっしゃっていましたけれども、中学生の時は玉川峡へキャンプに行ったり、それから秋になると観光にハゼ釣りに行って落ちたりするような非常に川とのかかわり好きでしたし、遊ぶことが好きでしたから、大変楽しい思い出と思っています。
しかし、本当に生活上、被災者の目になったというのは19年前、昭和57年の台風10号のときでして、これは紀の川左岸域の方がほとんど水没したといいますか、床上・床下浸水、畑の冠水等相当な被害が出て、私も仕事上家事にタッチすることができなくて、女房、子供を不安のどん底に陥れたというようなことがありまして、それから紀の川というものをよく調べるようになりました。
そういう中で知っていったのですけれども、非常に紀の川というのは暴れ川であるということ。流域がゆったりと流れているというような話も先ほどありましたけれども、ゆったりとした川ではなくて、一旦、大雨が降ると本当に鉄砲水のごとく大台から落ちてくると。どうも支川も同じような性格を持っている。しかも、和歌山市内に対しては天井川的な性格を持っていまして、本当に堤防が1箇所決壊すると和歌山市は本当に水没してしまうという要素を持っている川。幸い今まで、私は見ていませんけれど。初めの現象みたいなものを昭和57年に見たということは言えるかと思います。そういう目で、紀の川あるいは和歌川、水軒川というようなものを、これからも見続けていきたいなというように思います。
そういう意味で、本当に紀の川の特性といいますか、紀の川の流域系の本当の自然の姿というのをやはり皆様に知っていただきたい。そういう中で、開発するなら開発する。しないならしない、ということを考えていくべきだと思っています。
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○ |
中川委員長 |
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どうもありがとうございました。
それでは、牧委員お願いします。
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○ |
牧委員 |
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牧でございます。私と紀の川ということになりますと、そこに書かせていただいたとおりなのでございますけれども、実は私も他国人でございまして、初めて紀の川を見ましたのは猿谷ダムができたころ、初めてあそこの川に行かされまして、学校の行事なんでしょうかね。そのときにここを通らせていただいたというのが初めてでございまして、私が大学生になってからでございます。
それ以来、そこに書かせていただきましたように、何か紀の川と関係させられまして、津田先生が、先ほどちょっと名前が出ていましたけれども、水生昆虫、あなたは淡水系をやりなさいというようなことを言われまして、淡水魚のこれは奈良県でございましたけれども、生物生産力の調査をやらされたというのがおつき合いの始まりでございます。その後、和歌山大学にまいりまして、何となくずっとつき合ってきたらついつい50年たっていたというのが現状でございます。 その中にあって感じましたことは、余り大したことはやっていないわけでございますけれども、魚類というものを中心にして考えますと、どうも和歌山の人たち淡水魚といいますと余りもう関心をお持ちになっていない。アユ以外はどうでもいいというような雰囲気でございまして、これに大変私若いころ腹を立てた記憶がございました。川にはたくさんの淡水魚類、いろいろな種類がいますよ、ということを強調したかった記憶がございます。
下流域等での紀の川の管理はいろいろなさって、それこそ紀の川は非常に管理の面でも有名でございますけれども、これでよかったのかどうかということを改めて考えていくべきだと。歴史にのっとって今後の開発を考えていくべきだと考えています。
どうぞよろしくお願いします。
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○ |
中川委員長 |
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どうもありがとうございました。
それでは、的場委員お願いします。
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○ |
的場委員 |
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的場です。私は昆虫類の調査研究で、紀の川と非常に深いかかわりを持っています。きょうは私の好きな昆虫になりかわりまして、ちょっと代弁させていただきたいと思います。
紀の川は私たち昆虫にとっては非常に重要な川で、紀の川を境に北側はほとんど大阪の昆虫、それから南側はいわゆる和歌山紀伊半島の昆虫と勢力を2つに分ける大きな境になる川です。
それから、紀の川は和歌山県では一番大きな氾濫原になっていまして、そのために非常にいろいろな種類の昆虫が住んでいるわけなのです。まだほとんどどういった昆虫がすんでいるのかは調べられていない状況です。
それから、ほとんど野山の自然が壊されている中で、紀の川というのは私たち昆虫にとっては最後のとりでになるわけです。その最後のとりでというのは、いつ水があふれて流されるかわからない、いわゆる本当の背水の陣のとりでであるわけで、このささやかなとりでもいつまで安住の地でいるかわからないという状況です。
先ほども人と自然の共生という言葉がありましたけども、私たち昆虫や動物が人に歩み寄るような共生ではなく、少し人が私たち自然に歩み寄ってくれるような共生であってほしいと思います。以上です。
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○ |
中川委員長 |
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どうもありがとうございました。
それでは、三野委員お願いします。
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○ |
三野委員 |
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京都大学の大学院、農学研究科で私かんがい排水学、水環境工学分野を担当しておりますが、どちらかと言いますとむしろ農業水利といった方が一般的かもしれません。
私、平成9年に河川法の改正がありましたが、その際に河川審議会の専門委員といたしまして水循環部会に参加して、検討する機会をいただきました。新河川法の新しい理念の一つというのが健全な水循環の形成といいますか、健全な水循環というキーワードが出てきたわけでございますが、どうも水循環を検討している際に農業用水と地下水というのがどうしてもブラックボックスとして残ってしまったということで、その辺について明確な線がなかなか打ち出せていないというのが非常に残念なことでございます。
その後、実は私紀の川をモデルといたしまして、そのような経験がございましたので研究室のスタッフと、それから大学院生とともに水循環の構造の分析を行ってまいりまして、紀の川における健全な水循環は一体どういうことなのだろうかと、いろいろ考えてまいりました。
この紀の川の中で、後に資料でご説明があると思うのですが、水利権水量の80%強が農業用水でございますし、全国でも平均的には3分の2、約7割近くが農業用水でございます。その農業用水が水循環の形成に非常に重要な役割を果たしておりまして、特に紀の川ではたくさんの堰で何度も何度も繰り返し反復利用されているという非常に複雑な循環系が、農地あるいは農業水利施設を通して形成されているということがわかってまいりました。この農業水利システム、あるいは農業用水のシステムというのはどうも河川とともにこの紀の川流域の一つの自然のシステムとして、極めて重要な役割を果たしているのだということを明らかにしてまいりましたが、これで学位論文をとれた学生もいるわけでございます。そういうようなことで紀の川にかかわってまいりました。
それからもう一つは、紀の川は実は我が国の農業水利研究のメッカでございまして、今から振り返りますと40年前の私の学生時代に、よく紀の川がいろんな講義の中で出てまいりました。特に戦後の復興期の国土総合開発法の中の、特定地域の総合開発計画で紀の川というのは非常に重要な拠点になっているわけでございます。そういう形でいろいろな形でシステマティックに紀の川全体の開発がなされてきたのでございます。まさに、この総合開発から新しい国土政策が、国土の管理あるいは地域の保全管理という方向へ移る中で、この紀の川の整備はどういう方向を持ったらいいのか、あるいはどういう役割を果たすのかということを、この委員会で勉強させていただきたいと思っております。
特に奈良県と和歌山県の水争いの中のプルニエ協定というものが、私も今学生時代を思い起こしますと、GHQが介入してやっと決着がついたということが引き金になって一つの紀の川の水利開発がなされてくるわけでございますが、21世紀、まさにこのプルニエ協定から一歩新しい展開に向けたこの紀の川のあり方というのを、しっかりここで勉強させていただければと思っています。以上でございます。
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○ |
中川委員長 |
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どうもありがとうございました。
それでは、養父委員お願いします。
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○ |
養父委員 |
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和歌山大学の養父でございます。私も大阪の生まれで、紀の川に直接関係があったかどうか思い起こしてみると、私が昆虫少年だった中学校から高校にかけて、ちょうど那賀町あたりから岩出まで、随分、川を歩かせてもらった記憶があります。今でも思い起こすと、ヨシの群落の中でアオヤンマ河原ではミヤマサナエがとまっている姿、今でも明確に覚えています。私の手元にまだ当時の標本が残っています。
今も、和歌山大学に来てから紀の川へよく遊びに行きます。非常によく自然環境が残っているなと思って見てますけれども、水が減ったなと、実感しています。いろいろ下流の方でワンドをつくっていただいたり、あるいはいろいろ苦慮されて保全対策をしていただいたりしていますが、やはり水が減ったなという感じがするのです。
そのあたりも含めて、私の専門は土木なんですが、その中で生態工学というのをやっています。世に言うビオトープ、言葉で言ったら簡単なんですが、近自然工法やあるいは自然環境の修復といったような土木の中でも今までは余りおもてに出てこなかった分野ですが、その中で仕事をさせていただいています。
川というのは確かに治水あるいは利水が基本なわけですけれども、人や文化をはぐくんでくれています。今までいろいろな方がお話しになっていますが、文化をはぐくんできた、あるいは人をはぐくんできた。それに多様な自然が残された数少ない空間でもある。
この3つがやはりどのような形でうまく寄り添いながら、川の利活用を進めていくかはいろいろ問題点、課題があるかと思うのです。私共も実際に自然環境の修復にかわらせていただいて、本当に毎日切磋琢磨しながら勉強させていただいております。そういう意味では、皆様といろいろな課題あるいは問題点を議論させていただきながら、自然環境に配慮した治水や利水の対策に対して協力していきたいと思いますので、よろしくお願いしたいと思います。
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中川委員長 |
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どうもありがとうございます。
それでは、湯崎委員お願いします。
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湯崎委員 |
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湯崎と申します。私の出身地は海南市の東部、野上町に至るところにあるのですけれども、車で海南の中心地から約10分間ほど古い街道筋を東へと進路をとりまして、途中から北にハンドルを切るのですけれども、切った途端に光景が非常に広く飛び込んできます。どういう光景かと申しますと、眼下に貴志川の流れが見え、遠くには低い山並みが連なり、その山の中腹には民家が点在しているという、和歌山のどこにでもあるような里の風景が目に飛び込んできます。
その光景を見た途端に、「ああ、帰ってきたな」というような感慨にいつもとらわれております。たかだか10数年しか暮らしていなかった実家周辺と申しますか、里の光景なのですけれども、やはり「ああ、帰ってきたな」という伸びやかな空気に包まれたんだというような、理屈を超えた安心感に包まれるというのが、今に至る私の源風景となっていると思っております。
そのハンドルを左に切ってぱっと広がる光景、貴志川の風景というのはやはり先ほどの委員方の思い出話にもありましたように、かなり水量が減って、河原が非常に狭くなっているような印象を受けます。ところが、かつては見られなかった光景なのですけれども、その狭くなった私どもの目から見ると非常に貧弱な河原に行ってもみんなテントを張って、ファミリーが楽しむ光景が非常に見られます。
先ほどの委員のお話にもありましたけれども、私たちが企業活動であるとか、経済成長であるとか、そういう行いに邁進してきた中で、非常に川をないがしろにしてきた。いわゆる生活と川とのかかわりがとても乖離してきたと。その乖離してきた乖離幅がひどくなってきた今という時点にあって、私たち人間であるとか、あるいは昆虫とか、あるいは微生物であるとかすべてが酸欠状態に陥っているのではないかと思います。狭い河原へ休みともなるとキャンプ道具を持って皆さん寄ってくるというのは、そうしたあるいは酸欠状態のなせるわざではないかというふうに思っています。
一つ最近の動向なのですけれども、例えば消費動向というのを見た場合、購買で非常に伸びている分野というのは、例えば今では物ではなくて風景を見に行くとか、芸術であるとか、そういった物ではない分野にお金を使うということが増えてきているという報告もあります。それは、人間の本能というのはよくしたもので、こうした酸欠状態から何とか脱したいなと。自分たちの生存に気持ちのいいような暮らし方、そういうのをもう一度見つけたいなというところから、いわゆる人間性回帰、人間回帰の風潮というものがその消費動向にもあらわれているのではないかと思っています。
私たちの生存、生きるために気持ちのいい暮らし方、あるいは発展の仕方というのを、今までの産業、暮らし、あるいは人間の心という領域まで非常に関係のあった川というものを契機にもう一度考えてみたいと思います。それは、いわば紀の川ルネッサンスとでもいうような取り組みの中で新しい発達の仕方であるとか、暮らし方というものを一緒に考えさせていただきたいと思っています。よろしくお願いします。
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中川委員長 |
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どうもありがとうございました。
それでは、最後になりますが、私と紀の川とのかかわりを少しお話させていただきます。
私、専門というのはいろいろ、水耕水理学といいまして、例えば河川、あるいは今問題になっているダムとかそういったものの機能、水理学対機能、そういったものを研究してきたわけですが、例えば紀の川ですと今から20年ぐらい前、特に全国の各河川にダムができたり、あるいは砂利、土砂採集したりいたしまして河床がどんどん下がってきた。そういうことになりますと、先ほどたしか土岐委員がおっしゃったような橋ができて非常に便利にはなったのですけれども、一方ではどんどん河床が下がってまいりますと橋が洪水を機に倒壊する。そういう危険性が非常に多いわけです。
例えば、紀の川でその当時を見てますと、砂利採集の影響と思いますが、約4メートルぐらい河床が下がり、事実落橋した、倒壊した、そうような橋も幾つか見られました。
そういったことで、皆様、見ていただければわかりますが、JRの和歌山線、そこに岩出鉄橋がございます。あれの基礎を見ていただいたら非常に大きなプロテクションで床板をしてるのですが、ああいうものは洗掘をますます助長し非常に危ないということです。
そういった土砂のバランスを考えた河道の維持の方法、検討いたしまして、近畿地方建設局当時の災害に伴う橋梁、護岸とか堰とか写真集と、それに関連した論文、そういうものを発表したわけです。
それと私、昔ダム技術者といいますか、ダムの新しい戦後技術開発を行っていたことから現在もそういう点で技術的にかかわっているところが多いのです。紀の川筋では例えば大滝ダムの現在の形状を技術的に決める場合の委員長をやっておりましたし、あるいは紀伊丹生川ダムの環境委員会、それもあわせてしておりました。ここにおいでになります何人かの委員、生態系、生物系の先生方と、あるいは水質の先生も入っていただいて検討いたしました。
そういうことで、紀の川とのかかわりは断片的といいますか、時間をいろいろ置いてでありますけれど、そういった経験があるということでございます。またひとつよろしくお願いします。
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