ホーム > 紀州にゆかりのある人物 |
【有吉佐和子(1931~1984)】 |
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【松下幸之助(1894~1989)】 |
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【井沢弥惣兵衛(1663~1738)】 |
江戸時代を代表する治水家。名を為永(ためなが)といい、紀伊国那賀郡溝口村に生まれる。紀州藩士であった徳川吉宗の将軍就任後に幕臣となる。1722年に幕府の勘定所に召され、25年には勘定吟味役格、31年に勘定吟味役となり、35年には美濃国の郡代を兼任する。吉宗からの信頼は非常に厚く、享保の改革においても治水や農業開発において、その敏腕を発揮した。河川を中心とする土木技術において、数多くの新機軸を開発。その手法は紀州流の開祖となっている。1728年に完成させた、利根川中流部から取水の見沼代用水(埼玉県)60キロは、武蔵国の農業開発や水運に多大なる貢献を及ぼしたもので、彼にとっての代表的事業と言える。また、木曽川三川分流の宝暦治水も彼の設計である。 |
【陸奥宗光(1844~1897)】 |
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【南方熊楠(1867~1941)】 |
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【片山哲(1887~1978)】 |
和歌山人初の内閣総理大臣。社会民主主義右派の政治家であり、熱心なクリスチャンでもあった。1887年生まれ。東京帝国大学独法科を卒業後、弁護士となり、法律の民衆化を強く唱えて中央法律相談所を開設。日本労働総同盟、日本農民組合などの顧問も務め、無産者の訴訟に力を尽くした。1926年、社会民主党の創立に伴い、書記長に就任。1930年の第二回普通選挙では神奈川県より出馬し、衆議院議員となる。1932年には社会大衆党の結成に参加。しかし、二年後に日中戦争批判演説を行った民政党・斉藤隆夫代議士の除名に反対したことがきっかけで、社大党を除名される。戦後は日本社会党結成の中心人物となり、書記長に就任した。1974年には社会党首班の三党連立片山内閣を組織。和歌山県人として、初めての内閣総理大臣となる。 |
【前畑秀子(1914~1995)】 |
水泳選手でオリンピックの金メダリスト。結婚後は兵藤秀子となる。和歌山県橋本町生まれ。1932年のロサンゼルス大会の200メートル平泳ぎで、オーストラリアのデニスに敗れて二位になる。これが選手生活で初の敗戦だった。その後、雪辱を果たすべく、4年後のベルリン大会まで毎日2万メートルを泳ぐという過酷な練習を積み、見事に優勝を勝ち取る。決勝レースではドイツのゲネンゲルと息詰まる接戦を演じた。その時、実況中継したNHKアナウンサーが連呼した「前畑がんばれ!」のフレーズはあまりにも有名。1981年にはオリンピック功労賞を日本人女性として初めて受賞した。1983年には水泳教室の指導中に脳出血で倒れるも、1年余りのリハビリ生活を乗り越えて、社会復帰も果たしている。 |
【武蔵坊弁慶(不明~1189)】 |
平安時代末期の僧兵。熊野別当湛増の子供で、紀伊国(現・田辺市)に生まれたとされている。もともとは、比叡山の僧で、五条大橋の決闘以来、源義経に仕えるようになる。歴史的にもミステリーなところが多く、実在したのかどうかを疑われるほど、謎の多い人物でもある。その一方で、『平家物語』を初めとした創作の世界では大活躍が目立ち、義経と並ぶ主役格と言える。また、「弁慶の泣き所」や「弁慶の七つ道具」など、慣用句にも用いられることでも知られる。現在の田辺市役所前には、奥州衣川の戦いで、主君義経を守るために壮絶な死を遂げた弁慶を弔うように、六代目の弁慶松が植えられている。 |