国土交通省 近畿地方整備局
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> 紀の川大堰のふしぎ大研究!
紀の川大堰の役割-1
紀の川の近くにはたくさんの人々が住み、大昔から紀の川と人はかかわりを持って生活を続けてきました。大雨が降(ふ)って川の水があふれると、川底を掘(ほ)ったり、堤防(ていぼう)をつくったりしてたくさんの工事を繰(く)り返し、水害とたたかってきました。
でもそんな苦しみばかりではなく、川の水をたくさん利用できるように人々は考え、昭和32年に新六ヶ井堰(しんろっかいぜき)がつくられました。
しかし新六ヶ井堰は、底が高くて水が流れにくいため、洪水(こうずい)をおこしやすい欠点がありました。
1.人と紀の川のかかわり
1619(元和5)
~1672(寛文12)
このころから紀州藩主頼宣(よりのぶ)は、治水のための工事を行ったといわれています
柳堤(やなぎてい)…現在の嘉家作(かけづくり)から地蔵の辻の国道24号線と地蔵の辻から紀の川の堤防まで 。
松原堤…地蔵の辻から八軒家までの国道24号線
千間(ぜんげん)堤…かつらぎ町新在家の紀の川に沿ってつくられた堤防
1756(宝暦6)
紀の川が洪水(こうずい)となり、人家が浸水し、多くの死者がでました。
1837(天保8)
紀の川の河口を切り開くため、数千人が約4ヶ月かかって行いました。
1848(嘉永1)
洪水がおき、城下の約半分が浸水しました。
1898(明治31)
岩出町から河口までの堤防はこの時から大正の終わりごろまでにできあがったようです。
1917(大正6)
洪水によって紀の川の流量 は5600m
3
/秒を記録しました。
1923(大正12)
紀の川の洪水を防ぐための工事に着手、主な工事は川はばのせまいところを拡げたり、川底をほったり、堤防などをつくりました。
1949(昭和24)
大正12年からはじまった工事のうち、堤防だけがだいたいできあがりました。
1953(昭和28)
7月と9月に洪水があり、多くの死者がでました。
1957(昭和32)
新六ヶ井堰(しんろっかいぜき)がつくられました。
1959(昭和34)
伊勢湾(いせわん)台風は戦後最大のひ害となり、紀の川の治水計画をつくり直すきっかけとなりました。
1974(昭和49)
昭和28年の治水計画を再びつくりかえ、このあとの紀の川の治水計画が決まりました。
十津川紀の川総合開発により、紀の川の水をはじめて大和平野へ導水しました。
1982(昭和57)
台風10号による大雨で、紀の川の流量 は5810m
3
/秒になり、多くのひ害がでました。
1994(平成6)
雨が降らず、水不足がおこり、海南市では断水になりました。
2003(平成15)
紀の川大堰の本体完成。
青色の文字…洪水などで人々がうけた被害
オレンジの文字…被害を防ぐために行った工事
2.安全に水を流す方法
●新しく堤防をつくる
●堤防をつけかえて川はばを拡げる
●堤防を高くする
●底を掘る
■洪水
(こうずい)
をなくし、もっとたくさんの水を利用するために
台風のときなどの大雨で、川の水が増(ふ)えても紀の川大堰(おおぜき)はゲートを上にあげて、水をスムーズに流します。川底の土砂(どしゃ)を取りのぞいて、底が深くなっているので、今以上に流れやすいです。
また、新しい堰(せき)はこれまでより3倍も多く水を貯めることができ、みんなが安心してたくさんの水が使えるようになるのです。
■紀の川大堰
(おおぜき)
の場合
ふだんの時
大雨が降(ふ)ると
ゲートを上げて水を安全に流すので、紀の川大堰(おおぜき)の場合は大丈夫!
■新六ヶ井堰
(しんろっかいぜき)
の場合
ふだんの時
大雨が降(ふ)ると
水の高さが高くなり、水があふれる危険(きけん)があります。
■昔の治水工事の苦労
水を治め、水害を防(ふせ)ぐために昔から工事が行われてきました。最も古いと思われるものは300年以上も前に堤防(ていぼう)を強くする工事を行っています。
昔は今のように機械がないので、全て人の力によって土を掘(ほ)ったり、土をかついで運んだりとても長い時間がかかり、多くの人たちがたいへんな苦労をして水害とたたかってきたのです。
昔の治水工事のようす
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