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5.紀の川の風水害 |
紀の川の風水害の史料上の初見は、『日本三代実録』元慶2年(878)9月28日の条に「26日亥時、風雨晦瞑、雷電激発、震ニ於国府庁事及学校并舎屋一。被レ破ニ官舎廿一宇。縁辺百姓四三家一。(中略)大木倒壊仆者千餘株。」とあり、紀の川下流の北岸に所在したとされる紀伊国の国庁と周辺民家の暴風雨の様子が記され、平安初期の紀伊国府の所在の有力な史料であるとともに紀の川流域の風水害を推定させる重要な史料である。 江戸時代における紀の川の水害記録は45回に及んだとされる(『和歌山市史』)が、下表にしめす史料もその主なものである。 |
江戸期の紀の川出水記録 |
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それは宝永4年(1707)5月7日紀州大水、8月12日大風、10月4日大地震、正徳4年(1714)8月8日大風、享保元年(1716)6月20日大風、4月15日大雨、享保9年(1724)夏秋早魃、享保13年(1728)6月17日大雷、8月14日竜巻、宝暦6年(1756)9月17日紀の川大水、宝暦10年(1760)6月12日雨型などである。 なかでも宝暦6年(1756)9月17日の紀の川大洪水は、紀の川下流の南岸、吐崎領と八軒家間の大堤が百間にわたり欠潰し、岩出より下流、三葛領(現紀三井寺付近)まで大被害をうけた。「紀の川大堤の総越箇所多く元和期の徳川頼宣人国依頼の大水であり、水量二丈余、水死者二千人に達した」と記されている。和歌山城下の被害について「和歌山城下水難、岡部伊賀守屋敷(城の東、岡口門付近)門のかぶきまで今三尺斗を残し、水つき御城堀一面に氾濫、丸之内御城内にも水つき候、但、本町一丁目二丁目に水登り不申、三丁目ハ水深サ三尺斗り、六七八九丁目ハ軒迄上ル故、ニ階ノ窓ヨリ助ケ舟二乗リ人々立退、畑屋敷ハ欠作リ下ノ町屋より新内田中町通いづこも軒迄つき或ハ屋敷迄水のり候所々多し、逃おくれ候ものは一日二夜屋根ノ上ニ在罷者多し、宇治辺広瀬辺之諸士屋敷迄も土塀不残崩ル、鈴丸橋京橋仙橋中屋敷橋雑賀橋右四カ所流落」とあり、本丸を残し丸ノ内など武家屋敷を含む城下町全域が侵水している。 『南紀徳川史』にも「若山に在ては、火災は往古より概して稀也と難も、水災は紀の川動もすれば氾濫、城下へ浸入し宇治辺葱に一面之湖海となり、本町辺尚毎行を免れがたき」とあり、いずれも紀の川の堤防よりの総越である。大台ヶ原に源流をもつ紀の川の水量は紀の川流域一帯の水害をより大ならしめたことになる。 宝暦6年の八軒屋付近の大出水は中州の存在が大であった。一方、岩出組大庄屋、福井家文書の「異変ヲ記ス」の小帳に文政4年(1821)8月9日の頃に「岸川大水、カ子ゴ切ル。壱丈八、九尺、亥(文化12年-1815)より七年目、右力子ゴ切放ノ節、山崎組大庄屋許引受タルヘシ、併シ、岩出御口前役所ノ上、箱山ニテ狼煙ヲ上ケ、是ヲ相図二切ルハ常例ナリ」とあり、このカ子ゴ(兼郷)は、中島新田の東部と六箇井堰にあたる。中島新田の中州の北側は紀の川の旧流路、古川でありもともと中島は紀の川の中州となっていたところを元禄年間に南側に連続堤をつくったのである。紀州流の工法の連続堤の弱点は総越の水難にあったことを物語っている。 安政2年(1855)8月20日の洪水も『南紀徳川史』には、「朝ヨリ夕刻迄大風雨紀ノ川出水栗林八幡裏ニテ常水ヨリ六尺出水後追々増水廿一日朝五時前一丈四尺九寸限ニテ五寸減水市内町続在領ノ人家宇治広瀬辺の諸士屋敷水込二相成鍛冶橋中央七間程并新留町小橋流失ス御殿向ハ別條ナシ、大阪も十九日夜ヨリ廿日夕迄暴風雨淀川筋出水定水ヨリ凡一丈三尺余ノ増水ト云」とある。 嘉永元年(1846)8月の『小梅日記』にも8月7日から8日に大降りとなり9日には「夕方より門口迄水来るとて人々さハくゆへ見ニ行ぬる内、段々水勢つよく御丁中皆川二成、(中略)六十年来ノ水也。つつみ切候哉。鐘ノ音かまひすしくはねこす。水音雷の如くきこゆ。近辺にも皆高ちゃうちん出し、所々より水見廻等来る」とあり、堤防の欠潰ではないかと推測している。 文化14年(1817)『御普請方御文書抜帳』(『和歌山市史』第2巻)には紀の川下流の水防対策の方法として南岸より城下町への洪水流を緩和する方策として岩出の「兼郷(子)」、粟村の「キレト」の北岸堤防を切り洪水流を北岸田畑へとおし、遊水池的役割を果たす方法をとっていたと考えられている。 紀の川洪水の時は、岩出、宮井、八軒屋、栗林八幡裏、伝法川口御舟蔵の役人が出張し、役人以外は大手堤へ出張した。増水は有本村の水杭場ではかり、増水6尺で宮組大庄屋、大普請、増水7尺で注進した(安永9年(1780)5月)が、文政6年(1823)には増水1丈2尺以上で御年寄2名が詰場所へ出張し、勘定奉行も2人栗林堤へ出張し警戒にあたっている。 幕末の慶応2年(1866)ごろから「此地ヨリキノ川水引下げ宜キ故、カネゴ切ズトモ凌キツクモノナリ」と記されている、(『和歌山市史』第2巻)。 宝永2年(1705)6月16日の岩出横渡しによる上新出一本松から根来寺に向かう40名余の渡し舟が転覆し15名は助かり残りの人は水死し、その巡禮墓が満屋にある。 明治期になっても、紀の川の水害は南岸堤防の総越によって和歌山市内に大洪水の被害を与えている。明治期の17回の水害はその大半は8、9月の台風の季節である。なかでも明治22年(1889)8月18~19日と9月11日の水害は全県的大災害をもたらし、県下の溺死者1000人余、和歌山市域でも流失全半壊家屋113、死者11人、浸水家屋9700戸に達した。 この詳細は和歌山市役所(1896)『和歌山市水害記事』に記されている。洪水による紀の川欠潰地点は江戸期にも欠潰した八軒屋上流で、西和佐村の「進達控」に貴重な資料が記されている。要は紀の川堤防の松並木を明治初年に伐採し、その松根が腐植し堤防に穴をあけ洪水の際水漏れをおこし堤防の大々的欠潰につながったとする人災であるとされている。 その後の補強工事や被害対策は行われている。和田川河内の坂田にある了法寺境内にはその洪水記念碑がたっている。 昭和期に入ると、昭和9年9月21日の室戸台風、昭和25年9月3日のジェーン台風、昭和27年7月10~11日の7.10大洪水、昭和29年6月29~30日の紀北水禍、そして昭和36年9月16日の第2室戸台風がある。 これらの台風による紀の川洪水は、江戸時代から第2次世界大戦前までとは異なり、堤防の強化によって堤防欠潰による総越しはなくなったが、大河川へ流入する支流の滞水や後背湿地の住宅造成地の排水不良地に水が滞留する都市の内水害に変化した。 紀の川だけでなく淀川、大和川の旧流域にあたる東大阪市の第2寝屋川の池島の遊水公園は海抜1~2mといった上町丘陵背後の氾濫原にあるため河内の水を一たん集め第2寝屋川で大阪湾へ流下せしめる方策をとっている。これは東京北東の利根川流域にもみられ、治水対策の一方式ともなっている。 このような河川の近代的治水工法は、歴史的な大洪水量を目安とした基本高水流量によって築堤を行い、また上流に水量調節のダム建設によって流量を調節する計画高水量の両面から治水利水事業が進められている現状にあり、紀の川流域では大正6年の洪水を基準として紀の川改修計画が大正12~昭和24年に岩出-河口間が築堤、掘削浚渫され、さらに昭和28年、34年の洪水により修正計画として昭和35年より橋本さらに五條までの改築護岸工事や貴志川の計画、さらに大滝ダムが建設された。 昭和40年以降の新河川法にもとずき昭和40~47年の洪水と流域とくに和歌山市周辺の開発計画にみあう紀の川水系工事実施基本計画によって全面的な紀の川治水利水の水利調整の総合計画を実施してきた歴史をもっている。 |
■参考文献
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