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6.紀の川の利水 |
紀の川は、古くから灌漑用水や水運、漁業等に利用され、沿川地域の発展に大きく寄与してきたが、水運は鉄道・バスの開通によって衰退し、今では河口から湊水門との間を運搬船が利用しているだけである。現在の水利用は、発電用水や灌漑用水、都市用水、和歌川の浄化用水、内水面漁業等であり、流域社会と重要な関わりを持っている。 紀の川北岸に広がる河岸段丘面は、降水量が少なく、地形的構造により紀の川からの取水を阻まれていたため、溜池や小河川からの取水により開発が行われ、瀬戸内海型の高密度な溜池灌漑地帯をつくりあげてきたが、水不足に悩まされ続け、常習的な干ばつ地帯となっていた。江戸時代になって、学文路村の庄屋大畑才蔵により藤崎・小田の両井堰が開発され、下位段丘面の複合扇状地は、扇央部から扇端部にかけて紀の川からの取水により灌漑され、畑地の水田化が進み、穀倉地帯が形成されることとなった。 本格的な水利用としては、十津川・紀の川総合開発事業の一環として、大迫ダム、津風呂ダム、貴志川山田ダム、紀の川に分水を目的とした十津川筋の猿谷ダムが建設され、取水施設としては単独の取水口と水路を有する12の井堰が小田・藤崎・岩出・新六箇の4つの近代的頭首工に統合された。これに伴って用水路の改修整備も行われ、この地域の農業生産は飛躍的に増大し、常習干ばつ地である高位・中位河岸段丘面や扇状地扇頂部分等における水不足が解決され、大規模な水田から果樹園への転換と果樹園灌漑が行われるようになった。また、大淀町下淵頭首工からは大和平野に灌漑用水と上水道用水の分水も行われるようになった。 |
(1)灌漑 大古から中世までの水田は大河川の流域よりも、主として山麓の傾斜地が好適地として選ばれてきた。それは大河川の流域の平地は灌漑には便利であるが、洪水に見舞われる危険が少なくなかったからである。このため、大古以来農業用水は谷川の水を堰止めるか、あるいは天然の池沼の水を利用するだけのもので、紀の川の水を利用したとしても、それは極く局所的に限られたものであった。 しかし、中世以降文化の発達と人口の増加は、今までの小規模な灌漑では到底充すことができず、人工的な大規模な灌漑事業が要請されるようになった。 特に、徳川時代に入ると益々この傾向が強くなり、藩主吉宗の出現によって画期的な灌漑建設時代を築き上げた。すなわち、井沢彌惣兵衛・大畑才蔵という大土木技術家の輩出となり、亀池の築造、小田井・藤崎井の開削、六箇井・小倉井等の拡張修築等、紀の川における溝・池は殆んどこの人達の手に掛っている。特に伊沢氏は紀州流の流祖として天下に広く行きわたり、吉宗に従って関東に赴き、伊奈家に代って関東地方全般の土木工事を掌握した。この当時の井堰は殆んど河床に杭を打込み、土俵を積重ねて流れを堰止め、堰の上手に「元圦(ゆり)」と呼ぶ木造樋管を埋込み取水するものであった。 主なものは小田・七郷・藤崎・安楽川・荒見・六箇・小倉・宮・四箇・新六箇で、徳川時代以降紀の川流域の約1万町歩の耕地を潤してきたが、昭和28年の災害によって大打撃を受け、その機能を停止するに至ったため応急復旧工事を施工すると共に、更に根本的な復旧計画を行うことになった。 従来この地域は昭和27年より十津川・紀の川総合開発の一環として、この10井堰を統合して小田・藤崎・岩出・新六箇井の4井堰とする案があったので、その長短を検討した結果、井堰統合案による復旧が綜合的に優れていることが判明し、総事業費14億4,610万円をもって、昭和28年より和歌山県事業ととして発足し、昭和29年10月より国営事業に移管され、昭和32年12月全工事を完成した。井堰は総てコンクリート構造とし、必要に応じて可動堰部・土砂吐部・固定堰部・魚道・流筏路を設け、統合のため連絡水路を設けた。 |
1)小田統合井堰
これは紀の川に在る4頭首工の内最上流にあって、小田・七郷の用水は、この堰の右岸の取水口から導かれている。堰長211m、堰高2.8mの鉄筋コンクリート構造で、台風13号の際の水位を考慮し20mの鋼鉄製のローラーゲート3門を設けている。 取水は右岸から取り入れ、毎秒8.8m3/sを流入させるため、幅員2.5mの取水門3連を取付け、取水門の直後には沈砂地も設けてある。 この外4mと2mの魚道と4mの流筏路を設置し、堰の上下流にはシートパイルを打込んで完全に止水し、下流部の洗堀を防ぐため四層の木工沈床を埋設してある。 可動堰の操作は手動・電動のニ種で、自家発電による操作もできるようになっている。
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2)藤崎統合井堰
旧藤崎堰より100m下流に近代的頭首工が完成され、藤崎はもとより、荒見・安楽川の各井の用水は総てこの取水口より取水されるようになった。 堰長212.2m、堰高1.5mの鉄筋コンクリート構造で、左右両岸に二門づつ高さ2.4m、幅10mの可動堰ローラーゲート四門を有し、固定堰の中央部には長さ60m、高さ0.4mの欠口を作っている。 この頭首工は旧堰より100m下流に築造したため、左右両岸の在来水路の底を掘下げて取水口と連絡した。 取入は右岸の藤崎井は4m3/s、左岸の荒見・安楽川は5.8m3/sで、その他幅3mの魚道を左右両岸に設け、固定堰寄りに幅4mの流筏路も設置してある。
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3)岩出統合井堰
井堰は岩出町清水地先の紀の川の狭窄部をなしている処に建設され、堰体は総て鉄筋コンクリート造りで、堰長は175m、30mローラーゲート4門、10mの土砂吐2門、4.4mおよび2mの魚道各1個所、更に4.4mの流筏路1箇所を設けてある。 堰は全部可動堰であるが、洪水時に手動操作ができるように、全スパンをトラスアーチの上路橋で結び、両岸から連絡できるようになっている。
天保5年(1834)になって、中村成近の功徳を永く後世に伝えるため、船所の地に六堰続渠碑が建立された。この六箇井の井口はその頃、今の岩出の頭首工の取入口よりも約40m程度下流にあったが、洪水の時しばしば破損したようで、六箇井の掘継工事が完成してからは、取入口も小さくなり、取水に困難を来たすようになった。当時山口村の大庄屋であった木村清兵衛という者が、天保6年(1835)10月に官許を得、翌年3月までかかって現在の堰口に改めた。 この附近は御殿山という小高い山をなし、全体が岩盤からなっていたので、容易に掘抜くことができず、6ヶ月間毎日数百人の人夫を使役して、高さ1.5m、幅3m余、長さ約30m程の堀割を穿つたのであるが、この時代の測量技術は幼稚であったから、その堀割も1m余りも食違い、くの字に曲がっていたという。 昭和12年に紀の川改修工事によって御殿山は取除かれ、この堀割に、複断面の鉄筋コンクリート函渠約350m程継足された。 |
4)新六箇井堰
従来この附近は六箇井の区域で、文化2年(1805)に中村成近によって船所・中・市小路・粟・福島まで溝渠を掘り継ぎ、同11年(1814)より8箇年の歳月を費して更に松江まで継続し、文政5年(1822)に至って完成したのであるが、この辺りは井末のために水がとどかず、住民は水不足に苦しんでいたが、楠見信貴という人が、この状態を官に訴え、元治元年(1864)になって井堰を築設することができた。明治25年になって、善明寺泰平山に遣徳碑が、北島の堤上に新六堰碑が建立されたが、新六堰碑は新六箇頭首工が完成してから、JR阪和線六十谷駅の近くに移された。 この新六箇頭首工は旧堰の跡に建設されたもので、紀の川の4頭首工の内最下流にある。堰長329m、堰高1.4mの鉄筋コンクリート構造で、取入口は右岸にあって取水量は2.7m3/sである。取水する時は、固定堰上に70種の仮板堰を設け、水位を上昇せしめて行い、洪水時には流失するようになっていたが、その都度多大な労力と冗費を生ずるので、中央部100mの区間に自動顛倒堰を設けた。 この堰は油圧によって遠隔操作し得る最新式のもので、洪水時には自動的に堰底に没するようになっている。この他、右岸取水門に近接して幅10mの土砂吐水門と、その両側に魚道と流筏路を設けてある。 |
紀の川筋頭首工諸元 |
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