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3.紀州流の治水工事と新田開発 |
宝暦9年(1759)常陸の人、眞壁用秀の『地理細論集』(日本経済叢書)の「川々御普請心附之事」には、関東流、紀州流の名称は使用されていないが、享保の初め宝永頃より治水工事が丈夫になり、河川を直線化し新田開発が進められたが、かえって洪水被害も大となったと記されている。この河川の連続堤と新田開発が紀州流とされている。 関東流と紀州流の工法は、その地形的条件にあって利用が異なったが、その特徴は、関東流は分散型であり、紀州流は直線型ともいえる。 関東流の治水新田開発は、河川の蛇行を利用して、洪水時に水量を分散せしめるもので、流路の所々に遊水池をつくり、また乗越堤をして河川を下流の平野に洪水被害を軽減し、さらにこれらの周辺に河川より分流または支流より本流への排水をはかる新田開発方式を採用したのである。関東流の発生は、関東平野を流れる利根川が関東ローム層の台地を侵食する低湿な侵食谷を流れ、沼地も多い地形環境で流速も遅く、支流の排水も遅い低平な地形条件から成立したとも考えられる。いまも利根川流域では建設省による遊水地や洗堰がコンクリートで建造されているのである。 これに対し紀州流は、上方流を源流としたもので、古代より淀川の茨田堤(『日本書記』)や近世の大和川の川違えの附替工事による新大和川と鴻池新田の成立が河内国中甚兵衛に見られるように、堤防の強化と直線的に海に洪水流を早く流し、曲流部の旧河床や氾濫原を新田開発する一石二鳥の工法であった。とくに強固な二段に固めた連続堤の構築が重要な技術であった。この工法で井沢爲永は信濃川下流や関東平野の江戸川両岸の飯沼をはじめ新潟平野の紫雲寺潟などの土木事業がある。 なお紀州流の場合も、甲州流つまり関東流の堤防強化策の犬走り的堤防を採用しているものである。 |
紀の川流域の新田村 |
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新田畑高・戸数・人致は天保10年(I839)『紀伊続風土記』による |
紀の川流域の新田村(天保10) |