昭和42年7月8日から9日にかけて、西日本にかかっていた梅雨前線は台風7号崩れの熱帯低気圧の影響を受けて各地に集中豪雨をもたらしました。
阪神地域のみならず、長崎、佐賀、広島の各県でも、がけ崩れ・土石流・河川の決壊や氾濫などが発生し、広い範囲で大きな被害が生じました。
昭和42年の6月末、日本列島の気圧配置はようやく梅雨らしくなり、前線が西日本に停滞していました。8日に熱帯低気圧となった台風7号が、次第にその勢力を弱めながら近づき、これに刺激された梅雨前線が活発な活動をはじめ、記録的な集中豪雨となったのです。
神戸における雨量は、24時間で最大319.4mm、1時間で最大75.8mmとなりました。これだけの降雨量となったのは、神戸周辺に降雨域が停滞したためです。
神戸で最も雨が激しかったのは7月9日20時頃で、その時刻は災害の発生した時刻と一致しています。
六甲山地の被害は表六甲に集中しています。各地で山崩れが生じたほか、河川の氾濫による浸水や土砂の堆積などによる被害がありました。
神戸市葺合区(現中央区葺合町)市ヶ原の世継山斜面では、約5,200立方mの土砂が崩壊し、ふもとの市ヶ原集落を襲い、多くの人家が土砂に飲み込まれ、21名の人命が失われています。
また長田区明泉寺地区でも長さ40m、幅25m、平均深さ6mの大規模な崩壊が発生しています。
神戸市では、家屋の全壊流出361世帯、半壊376世帯、床上浸水7,759世帯、床下浸水29,762世帯となっています。死者は84名、行方不明8名という被害が出ています。
六甲山麓に拡がる住宅地
(平成6年1月)
この豪雨での被害は、都市化の進んだ神戸市中央区などに集中していました。これは、宅地開発が山間部にも広がったため、山腹崩壊や土石流の発生が、六甲山地の直下に広がる市街地の都市災害にそのまま繋がったと言えます。
これを機に、同年9月「急傾斜地崩壊対策所業実施要領」が、そして、昭和44年には、「急傾斜地の崩壊による災害の防止に関する法律」が制定され、がけ地対策への本格的な取り組みが始まりました。
昭和42年7月豪雨を体験した方から当時の様子をうかがいました。 →体験談を読む
六甲砂防事務所では、昭和42年7月豪雨を後世に伝えていくため、体験談や写真・映像などの記録資料を収集しています。お手元にそのようなものがありましたら、ご提供下さい。