2〜3日前から雨が降り続いていました。7月5日の朝もいつも通り登校しましたが、教室の窓から外を見ると、中庭に水が溜まっているのがわかりました。当時、建物の中でただ1つ、講堂だけが鉄骨でしたので、みなそこへ避難することになりました。講堂への渡り廊下を歩くうち、くるぶし程だった水が、腰ぐらいまで上がってきました。そんなに長くない廊下ですから、一気に水が増えたように思います。
1クラスだけ間に合わず、木造校舎に取り残されました。その時には、すでに水が1階の天上ほどの高さで水が流れていて、渡り廊下の屋根だけが水中から顔を出しているような状態でした。逃げ遅れたクラスには弟がいましたが、1階の壁が壊れて支えがなくなったため、床が沈み、校舎が壊れるのではないかと、とても怖い思いをしたそうです。渡り廊下の屋根を伝って講堂へ避難することになり、木造校舎2階の壁を中と外から机や椅子の脚を叩きつけて穴を開けて避難しました。
(当時の様子を残す写真と絵画が残っています)
水が引いた後には、土砂が高く積み上がっていましたし、大きな石もごろごろしていました。
当日(7/5)は登校していましたので、全員3階の講堂に避難しました。学校の北側にあった広い道路を見ると、道幅いっぱいに濁流が流れ、川のようになっていました。道沿いの家は1階まで全部水に浸かっていて、家が壊れたのか建築資材のようなものが流れていくのも見えました。一方の南を見ると、土手の上を走っているはずのJRの線路だけが残り、土手の土は流されてしまっているのが見えました。「早く家に帰りたいなぁ…家はだいじょうぶかな」と思いながら過ごしていたのを覚えています。
雨が小降りになってから、一人で帰宅する事になりました。早く家に帰りたい一心でしたが、今考えると、よく一人で帰ったと思います。小学校から現在の国道2号線まではひざ下ぐらいの水でしたが、国道2号線にでると、胸ぐらいまで水が溜まっていました。途中、アスファルトがえぐれたのか、くぼみのようになっているところもあり、頭まで水に浸かってしまう事もありました。幸い、歩いている人も多くて、何回も助けてもらいながら家にたどり着きました。国道を帰っていた時間はとても長く、また一番怖かった様に思います。家はそんなに水も多く無く、地域によって被害が大きく違ったように思います。
また、近くの住吉川は大きな石で一杯になっており、上流では家も沢山壊れていた為、流されてきた金庫を拾いに行こうか?などと大人が冗談混じりに言っていました。住吉川の近くにあった病院の地下にあった受付ロビーには、大量の土砂が流れ込み、水が引いた後、多くの方の遺体が発見されたと聞き、とても怖く思いました。
ちょうどその日は期末試験日で、早めに登校していましたが、雨がひどくなり、帰ることになりました。私は、家が近かったので帰りましたが、家が遠い人は危ないので寄宿舎に泊まったようです。行きは歩けるほどだった水が、一時間ほどで急増していました。道も側溝もわからないほどになっていて、側溝に落ちたりもしました。
川ではタンスや家具などが上流から流されてもきました。家の近くを流れる当時の天上川は、今よりも浅くて、川幅も狭く、あっという間に水が溢れました。それまではどじょうなどを取り、親しんでいた川から水や土砂が流れ出したのには、それまで災害が無いと思っていた事もあり、驚きました。
また、JRの線路の下の土が流されて現2号線あたりに溜まっていました。長いこと土砂がそのままになっていて、動けなくなった郵便トラックが置かれていたり、1階部分が埋まった家では、はしごを使って2階から出入りしているような状態でした。
小川が一人で渡れない
家の横にあった幅5mほどの道が川のようになっていて、水の勢いが強く、一人では渡ることができなかったのを覚えています。無事、家にはたどり着けましたが、そこを材木やいろいろな物が流れていくのが見えました。
屋上に避難
当時、体が弱く、よく学校を休んでいたので、当日も休んでいたように思います。ただ、後から友人に聞くと、雨が止んだあと、小学校の屋上に避難したそうです。家にも帰れず、迎えも来ないので、さびしく不安で泣いた、との事でした。